昭和44年9月13日 夜の御理解(若先生のお話)
北村修司
「信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」と、これは教祖様の御教えでございますけれども、本当にあの、信心の伝承という事の難しさを感じるんです。これはあの、上から下に、伝えるという事よりも、受ける、僕らの場合はその受ける事の難しさを感じるわけなんですね。伝承、受け継ぐ時の難しさ。反対に例えば親先生達なんかはその、受け継がせる事の難しさにご苦労なさっておると思うんですけれども、ちょうど私あの、この信心を受け継ぐと言いますか、伝承するという事の、よく私達小学校の時なんか(がくだんリレー?)で、まあ選手じゃございませんでしたんですけれども、選手にはっぱをかける役でよく運動会前に練習させてたんですけれども、バトンタッチする時の要領のような気がするんです。例えば第一ランナーが走る、そして次第二ランナーがバトンを受ける時に、もう第一ランナーが後ろに来たもう十メートルぐらい後ろに来ましたら、もうタッタッタッタとこうやって出てますよね、第二ランナーは。そして第一ランナーが最高のスピードに達したと思われるぐらいな時に第一ランナーが第二ランナーにバトンタッチするわけです。だから第一ランナーも最高のスピード、第二ランナーも最高のスピードの時に渡すというのが、そういう稽古をさせてたんですけれども、そういう事じゃないかと思うんですけれども、まあその、リレーの詳しい事は分かりませんけれどもですね、まあ素人なりにそのバトンタッチの練習をさせている事を思わせて頂くんです、今日。ていう事はですね、例えば私達が信心を受け継ぐとか伝承をさせて頂くという事がなまやはんぱ(生半可)な事で受け継げるものじゃないですね。また受け継がせる方も、こりゃ一生懸命なら受け継ぐ方も一生懸命、最高のコンディションの時でなければ、信心の伝承というか本当の真の伝承なんですよ。まあ表面的、リレーに遅れてもいいならこうゆっくりいった時にホイとやりゃあこりゃバトンも落とすような事もなかろうけれどもですね、本当に最高のコンディションで本当のものを受け継ごうとする場合は、そういういうなら一生懸命のものと一生懸命のもののぶつかり合いというような事になってこなければ、信心の伝承というのはできないんじゃないかというような気が致します。これはもちろんそう思わせて頂く時の神様からのおかげを頂くという事もやっぱり受ける方、神様が与える方となさる場合でもやっぱり同じような事が言えるんじゃないかと思うんです。本当にそれをおかげにしていく時には、こちらの受ける姿勢というものが、信心もできとらん時にだから受けたおかげというのは危険極まりない事でしてね、こちらの最高のコンディションの時に受けるおかげ、受ける信心の継承という事になってこないと嘘じゃないかと思うんです。あらためて信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよという事の、まあ難しさと言いますか、そのまた受ける側としての、その受ける事の難しさを感じるわけなんです。
まあ難しい難しいばかり言いよったんでは話になりませんけれども、そこのところをどうでも受け継いでまいりたいし、受けてもらいたいという風に(願いはするんです?)。